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日本版 ジョイ浜崎

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長女と生まれたばかりの次女を実家に預け、2度目の渡米へ。今回はれっきとした目的が。
その頃、来日していたスティーブ ぺーリン(今は無い太東スティーブス ポイントの名付け親)の
マリブの家に滞在しサーフボード マニュファクチャーに入り込み修行という目的。マリブの高台の上の素晴らしい家から毎日CON SURFBOARD 他、色々教えを乞い。私自身はシルクスクリーン印刷に凄く興味を持ち何とか日本で出来ないものかとインク等購入し技術を盗んだり忙しい毎日でした。
ボード作りも材料も道具もない時代、ひたすらそんなものを買いあさりしてました。
T-シャツと言えば丸首の下着しかない日本、さそっくHIーCREWのシャツの会社と独占販売契約を。何千枚だか?何万枚だか?若い無鉄砲さって。
でもアメ横の栄光とかが情報聞き付け飛ぶように売れましたが。
そんな中、日本に来たときお世話したアーニー田中さんが、全米で2,3台しかないポルシェでドライブに連れて行ってくれたり、食事は当時の有名スターディーンマーチンと隣りあわせで厚さ5,6cmはあるステーキに目を白黒したり、近郊の砂漠にドユーン バーギーを積み込み遊びに行ったり楽しい日々でした。スティーブの弟はジョジョ ぺーリンというDEWEY WEVERのテストライダーで彼からも色々おそわりました。世の中はベトナム戦争の疲弊でヒッピーの時代、ハリウッドの通りはイージーライダーもどきのオートバイが行きかい、店も紙巻タバコ??の道具の店が軒を連ね、ミュージカルは真っ裸の物等少し前のアメリカでは決して見ることができなっかた光景がくりひろがれていた時代でした。
スティーブの家でもジョジョが毎日のように髪をきれ、髪をきれとお母さんが注意されていました。
サーファーのファッションも劇的に変わっていきました。
帰りはハワイに立ち寄りビーチ ボーイのクラレンス マキさんにお世話になり始めてハワイを楽しみました。前回はお金が無く、乗り継ぎの空港の中でほんの少しだけ空気を吸っただけでしたので。
日系人ジョイ 浜崎がサーフボード作りに女性一人加わっているのに刺激され、私は工場で働くことに。主人がシェープ、私がグラッシング、サンディングは主人、仕上げは私なんていう時代も有りました。もともとクリエーティブな仕事が好きだった私ですのでピンラインを引くのにこだわり芸術的な境地まで高め海に出て行ったボードが人々の注目浴びるのが嬉しかったものです。
日本プラスチック協会賞など頂いたりしました。

後にも先にも女性がサーフボード作りをしたということ私一人ではないかと。 百合子


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